なくなった宮沢喜一さんが、日米(にちべい)学生会議の一員として始めて渡米(とべい)したのは昭和14年だった。日中戦争のさなか、日米の空気は険悪(けんあく)の一途(いちず)である。往路の船中、日本の立場を弁護しようと、仲間と盛んに意思統一をはかった。
余儀(よぎ)に臨むと、向こうの学生は思い思いに意見を述べた。日本を悪く言う者もいろが。自国を批判する者もずいぶんいる。「言論の自由というのはこれか」。知米(ちべい)派で聞こえた元首相(しゅしょう)の、原風景になった。
そうした体験をへて身についた「冷静な合理(ごうり)主義」が、政治家としての持ち味になり、弱みにもなる。期待株とめされながら、初入閣(にゅかく)首相就任(しゅうにん)までに29年かかった。田中角栄氏ら親分肌のボスに疎まれたためである。「泥田を這いずりまわれない」といった陰口(けがぐち)もついてまわった。
首相時代、指導力に疑問符がついたこともある。だがハト派の象徴(しょうちょ)としての存在感は、最後まで揺れるがなかった。自衛隊のイラク派遣に反対し、憲法9条の改正には慎重でありつづけた。
「どの論理も{戦後}を生きて肉厚き故しずかなる党をあなどる 岡井ロン」。こころと胸をよぎるのは、この歌だ。宮沢さんのような「しずかなる民主主義者」をあなどる、荒っぽい空気が、今の政界を覆ってはいないだろうか。
「総理大臣」が刀を抜いて、「進め、進め」なんていうのは戦国(せんごく)ドラマの見すぎ」と、宮沢さんは言っていた。民主主義は、ときに遅々としてじれったいものだ。初入閣から一年で首相の座に就いた現職には、その辺の理解がないのかもしれない。
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